夢の定義についてもう一度考えてみた

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こんにちわ モンハコ〜問題の8割はコミュニケーションを主宰しておりますモンハコ(@mon8co)です。

LIFEENGINEは、夢を追いかける人のWebメディアなのですが、、、すいません、私はこれと言った具体的な夢はありません。一時期は夢がないこと自体に罪悪感を感じることすらありました。

しかし、最近では夢は必ずしも無くても良いのではないか。そう感じることが増えてきました。そもそも夢とはなんなのか。自分の経験を元に考えてみることにします。

強い自己否定と存在証明

実のところ、私は過去に2回ほど、自分の夢を諦めた経験があります。1度目は、高校時代からの夢だった学校の教師という夢、もう一つは社会人として働き始めたあとにあとに目指していたプロジェクトマネージャーとして大きな案件を回せる人間になるという夢です。

いずれも夢も、経済的な状況などの様々な事情により諦めまめした。

これらは挫折ともとれるのですが、今振り返ってみるとそれは本当に自分の夢だったのかも怪しい。

私は、大変自己否定の強い人間で、心のどこかで常に「こんなダメな自分は目標を持って全力で物事に取り組み、人よりも優位でなければならない」ということを考えていました。

自己否定を原動力とする夢は、承認欲求に振り回され、いつのまにかわりの人に認めてもらうことが夢である状態になっていました。

自分の欲求を満たすために夢を持っているつもりが、いつの間にか学校の先生や、会社の上司が目指せというゴールを目指す形で、他人の欲求を満たすために夢を持っている状況になっていたのです。いわば、夢というものは自分にとっては生きている存在証明だったのです。

ですが、今振り返るとそれは本当の意味で夢を追いかけているとは、とても言えません。

追いかけるプロセスを楽しめないものは夢ではない

他人の欲求を満たすための夢を追いかけているときにもっとも苦しいことは、夢は実現するまでは準備であるという感覚です。

夢は実現するためには苦労が必要で、それまでは実現できて初めて幸せになれる。それまでの自分は未熟でダメだという感覚がありました。

冒頭で書いた通り、私は途中で自分が夢(たと思っていたもの)を諦めたのですが、その途端にものすごい虚無感に襲われたのを覚えています。「今まで自分が追いかけていたものが何だったのか…」この感覚から抜け出すために随分と時間がかかりました。

自分が目指していたものを実現できないとわかった瞬間に、自分の中で我慢していたものに自分自身が押しつぶされてしまったのです。

今振り返るとそもそも夢の定義が間違っていた。本当に自分が望んでいる夢ならば、それを追いかけている途中も楽しめるはずなのです。

夢は実現した瞬間に喜びを得られるものではなく、常に追いかけ続けるプロセスであり、夢があるという状態自体が楽しくなければ意味がないとこのとき初めて実感しました。

夢は生き方を満たす道具である

このような経緯から、私は夢とは叶えることがゴールがなるとは限らないと考えています。

私にとって夢とは、自分の生き方を満たす為の道具。夢を持つことで、自分の人生をより楽しめる、そういうものだと感じるのです。

その意味において、実のところ、今の自分は夢がないわけではない。いつまでに何を実現するというほど、具体的ではないけれど、今は以前と比べ自分にとって、何が喜びで、何が苦痛であるかが明確になっていて、割と行動指針がはっきりしてきています。

夢は必ずしも、具体的でなくてもいい、漠然とした行動指針でもいいのです。大事なことは、自分が楽しいと判断できる行動指針をもっているか、すなわちLIFE ENGINEを持っているかなのです。

あなたのLIFE ENGINEは自分のものですか

私の失敗は、自己否定の気持ちを自分の夢(だと思っていたもの)で補完しようとしたことでした。自己否定を夢で補完しようとすれば、必ず他人の欲求を満たすために夢を叶えることになってしまう。

今の自分のまわりを見回すと同じような症状にとりつかれている人は少なくない気もしています。この記事を読んで少しでも感ずるところがある人がいれば、是非一度自分の夢は本当に自分の夢かということを考えてみて下さい。